表現の自由ってなんだろう。

 表現の自由っていうスローガンは、多分に性善説に依拠している。
 オープンソースモデルに近いかもしれないな。「正しくない発言」を敢えて制限しようとせず、代わりにオープンな発言は「多数の目」に晒されてあげつらわれ、時に批判され、稀に評価されて「ある程度のライン」に収束していく。オープンソース・ソフトウェアが「沢山の目があればバグなんてすぐ潰せる」という理念をある程度成功させてきた事実にも重ね合わせられそうだ。
 もちろん僕は法律の専門家でもなんでもない。事例も判例もデータもなく語りたくなったので、無い味噌絞って例のアレに言及しようとしているワケだ。
 ネット上の議論や論調は、先の「ある程度のライン」になかなか収束しない。その側面が最もカオスな2chについて言及する前にamazonレビュー機能について考えてみよう。ここではみんながある商品についてのレビューを加える。収束先は概ね二択で、レビュアーの意見は「結局いいのかわるいのか」が明確であるほうが「参考になる」。買うか買わないかを検討してるわけだからね。ただ、面白いのがamazonで「参考になる」と評価されてるレビューって軒並み「悪い所もあるんですよ。でもトータルとしてはいいよ」という評価の仕方が為されている。俺もなにげにそういうレビューの仕方しちゃってるかもしれない。
 2chで何かに感想つけるときもそんな感じでやっちゃってる。いい悪いかはここでは言明せず、思う所を考えてみるに留める。
『手放しで褒めるだけのレビュー』って、その時点で信憑性が怪しいんだよね。満点な作品なんてない。いやね、星五つ付けても気になった所をセットで提供しないと文章として微妙になっちまう。取って付けた批判があることで、レビュー文章が初めて「それっぽく」なる。
 2chでは逆にそういうのがないケースも目立つ。直情的に書いちゃう訳ね。数行書いたら長文って言われる文化だから、一言で「つまらん」「で?」「この書き込み、楽しいと思ったの?」みたいな意味合いの一行レスバリエーションが大量に発生している。ある意味判りやすいんだけど、あまのじゃくもいるし空気に流される奴もいるのでレスが続くときは大抵泥沼化する。
 典型的な例としては、誰かがベタ褒めしている作品があると、その次の人は批判眼バリバリで突っついてたりする。叩かれてる作品には擁護レス。実に面白い。

表現の自由」とセットになっている「評価の自由」ってのを考えてみる。評価って本質的に主観なので、客観性を持たせるためには何かと比較しなきゃいけない。基準枠なく「いい・わるい」は語れない。「すき・きらい」「快・不快」を述べることしかできなくなる。「何故好きか」「何故不快か」に言及しようとすると、結局何かと比較するか、何かと比較する事でデータを出して来た各種の学問の成果に頼らざるを得ない。
 何を準拠枠にするのかは、評価する側の自由である。建設的な議論をしたい際にこの行為は本質的に絶対間違ってるんだけど、いちいち準拠枠なんか決めて議論したい訳じゃないから2chでは迷走するんだよね。基準決めに数レス費やしてそのまま寂れたりとかザラです。

 何を言いたいのか判らなくなって来ているが、無理矢理例の話題にまとめるていきます。
 今回の児ポ法改正審議、性善説頼みの表現の自由が破綻している事を示しているでしょう。子供の性を保護するのって超大事。度が過ぎたロリコン規制も超大事。二次元でもキャラ設定上18歳以上ならOKなんて状況はとっととどうにかした方がいい。さて、いかにどうにかするのか。基準なんて引き用がないので、とりあえず規制してから考えよう。この辺が今回の論旨なんだと思う。
 ……ある側面では、妥当なんだよねぇ。下手過ぎるだけで。ほんと、コントだよ。
 国会映像でも「上半身裸のティーン男子アイドルがステージで踊るのは駄目ですか→もちろん駄目です」→ジャニーズ事務所とか大打撃じゃねえの大丈夫なのこれwっていう流れがある。実際に少年アイドル売り込んでる各社が急に撤廃できるアレじゃないだろうね。法案通っても上手くやるような気がするし、そうなると法解釈と視聴者の疑問符の板挟みになって、また形骸化パターンが一つ増えるだけ……とかなると、確実に負のスパイラル。

「異論があるのは判る。でも国際社会の風向き的にも、規制(の姿勢)が必要。だから、一旦明確な規制ライン制定しておきたい」というのが本音なんだと思うんだよね。本当に子供を性犯罪から守るためには別側面の課題も多くて、子供に「子供が好きな性犯罪者がいるよ」と教える機会も併せて作らなきゃいけない。子供に性的な情報を隠蔽するべきなのか、子供に性的な情報をオープンにするべきなのかっていう議論を活発にするべきかもしれない。なにせインターネットが一方的かつ暴力的に、子供に対する性の情報へのアクセス権を開いてしまった。フィルタリングは本質がフリーであるインターネットに対しては後付けの対策に過ぎないからね。

 ネットに対するフィルタリングも、表現の自由に対する法規制と同じ構図です。
 本質的に自由であるべきのものの、首根っこを縛る必要が出て来て焦っている。
 もしかしてそれは、本質的に自由であるべきものではなかったのかな?

 これも議論が必要だろうなあ。俺みたいな低能が語っても意味ない話ですよ。
 ネットは「理想論」をそのまま実装しちゃった状態で、そもそも法がついて行ける世界ではなかったりするのかもね。
 中国における総検閲状態ってのも一つの解答例なんでしょう——弊害、問題、好き嫌いは別にして。

「表現の不自由」が進み、「評価の暴走」が進むと、行き着く先は思考停止的な場所なのか。
 はたまた、新しいバベルの塔が建設される時なのか。

 うまくまとまんなかったので寝ます。